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2009-04-02

ジョゼ日記 その1耳あか問題上昇中

毎年二月二十二日は猫の日らしい。
字面の通り、ニャンニャンニャンだ。
今年(2009年)の二月にはまだ自分が猫を飼うなんて思ってもみなかった。
が、今うちにはアメリカン・カールの牡猫ジョゼがいる。
ジョゼがうちに来てから、わたしの生活の精神的中心はジョゼになった。
朝起きて自分の顔を洗うより先に、ジョゼの水とご飯、トイレの掃除をする。
それから落ち着いて自分の顔を洗顔フォームで洗い、電気シェーバーでひげを剃り、やっと朝食になる。
休みの日は、毎食後30分から1時間、一緒に遊んだり、ブラッシングしたりしてコミュニケーションを取るように心がけている。
最近ジョゼの毛並みがいいのは、自分のブラッシングの効果だと思っている。
我ながら親ばかならぬ、飼い主のおバカっぷりを周囲に発散している。
今日二度目の動物病院に行ったら、治療中先生に「おとなしくて偉いね」と褒められた。
その時のわたしは自分が褒められるよりもずっとうれしくて、「家では駆け回っているんですが」と謙遜した。
が、ジョゼは本当に治療中じっとしている。
アメリカン・カールという種は、耳が上に向いて尖って耳の穴が小さいのが特徴で、耳の掃除が難しい。
一週間前にも病院で耳かきしてもらい、大量の耳あかが出たが、今日も耳あかがすごかった。
自分でも毎日耳あかのチェックをして、耳薬を一滴さしていたが、気がつかなかった。それ程耳の奥の方に耳あかが溜まっていて肉眼では見ることができない。ジョゼがたまに右耳を掻いているのは知っていたが、毎日耳を見ていたので、ここまで溜まっているとは思わなかった。
今日は病院で、耳あかの原因がミミダニのせいかもしれないということで、背中に薬をさした。
来週また、薬の効果を見るために病院へ行くことになっている。
それで耳あかが少なく、または無くなっていれば、ミミダニのせいだったということだ。
耳あかがあんまり溜まると、外耳炎になるらしい。
そうなると、かゆみより炎症で痛みが出てきて、耳掃除なんて暴れてできなくなると先生が言った。
今日病院の帰り、ペットショップに寄り、念願だったジョゼのキャリーケースを買った。
4月12日まで割引キャンペーンだということで、トイレの砂と缶詰も買った。
上に書いたようにわたしの関心は今やジョゼにしかない。
ジョゼが来てからわたしは、家族に、他人に寛容に、優しくなったように感じる。
ジョゼがわたしの尖ったところを丸く収めてくれる。
ジョゼは家では暴れん坊で仕方のない仔だが、怒ることも含めて、わたしの感情は豊かになった。
怒りながら笑ったり、家族との会話もさらに増えた。
わたしが寝る前に心の中で最後におやすみを言うのはジョゼに対してだ。
一日はジョゼで始まり、ジョゼで終わる。
その生活に今本当に満足している。
ジョゼのことを書くと切りがなく、また取留めがなくなるので、この辺で終わりにしよう。
どうせまた、書きたくなることは毎日増えていくのだから。
毎日が驚きと喜びと好奇心に満ち溢れた、子ども時代以来の輝かしい日々が永くいつまでも続くことを願わずにいられない。
shiroyagiさんの投稿 - 00:35:37 - 0 コメント - トラックバック(0)

2009-03-31

猫たちの夜

うちの猫は夜になると、外へ出る。
どこへ行くのかと、ある日跡をついていくと、そこには草原があった。
ここはどこなのだろう。
わたしが記憶する限りでは15分も歩いていない。
大体、猫の行動範囲は五百メートル四方とある本で読んだことがある。
うちの近所にこんな場処はない。
わたしは不思議に思いながらも、猫の様子を窺った。
すると、どこか遠くの方で猫の鳴き声が聞こえた。
草むらの陰に、月明かりに照らされ数匹の猫がいるのが分かった。
わたしはこれが噂に聞く猫の集会かと興味津々で、猫たちに悟られないように猫の集会を見ていた。
すると、一匹のペルシャ風の仔がわたしに近づいてきた。
そして言うのだ。
「なんであなた猫なのに、集会に出ないの?」
「えっ。猫だって」
「そうよ、あなた立派な牡猫じゃない。何言ってるの」
わたしはその子猫の言うがまま、連れて行かれた。
草原の中央で集会は行われている。
わたしが行くと、見事なキジトラの大猫が叫んだ」
「おお。我が同志。集会に出るのは初めてだね?」
不思議なことに、わたしには猫の話す言葉がすべて分かった。
わたしは促されるまま、集会の場で自己紹介をした。
喫茶店「ねずみのこと」の外猫のジョゼです。今日はお招き頂き、ありがとうございます」
わたしは、招き猫のポーズで挨拶を交わした。
その夜は、深夜明け方未明まで、猫たちのカーニヴァルが行われた。
みな顔にマスクを被り、仮面舞踏会が催され、わたしはさっきのペルシャとジルバを踊った。
踊りが終わると、ペルシャがわたしに言った。
「パパ。おうちに帰ろう」
「パパ?」
「そうよ。何言ってるの。わたしのパパじゃない。今日はパパちょっとおかしいわ」
わたしはなんだか自分でもその仔がわたしの娘のように思えてきて、ペルシャの言うがまま、その仔が言う家へと誘われていった。
そこはまるでペルシャ宮殿。
「おい。こんな立派なお城のようなとこに入っていいのかい?」
「何言ってるの?パパはこの宮殿の王様じゃない。しっかりしてよ」
「ああ、そうだったね」
わたしと娘は威風堂々、宮殿の門の前に出た。
すると門が自然に開き、「王様のおかえりー」。門番の大きな声が聞こえた。
わたしと王女は、宮殿の奥深くへと消えていった。

shiroyagiさんの投稿 - 23:48:00 - 0 コメント - トラックバック(0)

2009-03-30

さくら

三月末のある晴れた平日、桜が三部咲で、気持ちのいい日和だった。
妻と千鳥ヶ淵を歩く。
山種美術館が見える。
「入ろうか」
「ええ」
美術館の窓から桜の木が眺められる。
わたしと妻はソファに身を沈め、永いこと桜を眺めていた。
妻には桜の木に思い入れがあった。
桜は妻の実家の大きな庭に一本あって、わたしと結婚して家を出るまで、毎年その桜の木につぼみがつき、花が咲くのを楽しみにしていた。
妻が実家を去ってから、桜の木に花が咲かなくなった。
妻はそのことを気に病んでいた。
それ以来、妻は桜の花を見るたびに、大好きだった実家の桜を思い出し、心を痛めた。
妻に子が宿ったのは、三年後のことだった。
予定日は三月の末。
赤児は女の子で、無事予定日に生まれ、母子ともに健康だった。
その日の朝、実家の桜につぼみがついているのを、高校生だった義弟が見つけた。
義弟は妻が入院している産婦人科を訪れ、その旨を告げた。
妻は言った。
「これも何かの縁。神さまの思し召し。名前はさくらがいいわ」
わたしは妻の桜の木へ抱いていた罪悪感が解かれたのをよろこび、
「きみの好きに。さくら。素敵じゃないか」
さくらが生まれた記念に、庭に実家の桜の木を接ぎ木した。
その桜は、さくらが中学生から高校生になる年の三月の末、さくらの誕生日に花を咲かせた。
わたしも妻も、ちょっと反抗期ぎみだったさくらも、それを大きくよろこび、その日近所の和菓子屋で桜餅を買い、家で久しぶりの一家団欒を祝った。
あの日、心を痛めながら眺めた千鳥ヶ淵の桜が遠い過去のように妻の脳裏を走馬灯のように走り抜けた。
今ではそれもいい思い出。
妻は以前のように、桜を愛している。そして何より娘のさくらを溺愛した。それをわたしはやさしくよろこび、包み込む愛で応えた。

shiroyagiさんの投稿 - 23:09:05 - 0 コメント - トラックバック(0)

2009-03-29

猫コラム 1 ジョゼと出会って1週間に憶う

猫を飼うようになってから、思う。
自分って猫だなあ。
鼻の頭や耳の後ろ、背中を掻いたりする度に、これって猫の仕種だなあって思う。
猫を観察しているうちに、自分にそれを反映させて見ていたのだ。
猫は兎に角、面白い。
なんと言っても、見ていて飽きない。
しかも猫の機嫌がよければ、一緒に遊んでくれる。
友だちか、仲のいい弟のようだ。
我が家の猫ジョゼのお気に入りのおもちゃは、ねこじゃらしとボールだ。今日もボールでサッカーをして汗を流した。
猫はねこじゃらしで培ったジャンプ力で、我が家の台所や食事中のテーブルに軽々と上る。
落ち着いて台所の支度もできない。また、こっちは火が危ないから近づいちゃ駄目って、何度も叱るのに、まるで懲りない。
本当に、人間の子どもにそっくりだ。
一度痛い目に遭えば止めるのかななどと希望的観測を抱いているが、どうなんだろう。
もう少し大きくなれば、落ち着くのだろうか。
ジョゼは去年の11月3日に生まれたので、今5ヶ月弱だ。
動物病院のロビーの壁に貼ってあったボードで見たのだが、人間に計算すると9歳だと言うことらしい。
ぼくが9歳の頃と言えば、友だちといたずらばかりして、叱られていた。
ジョゼのことをバカにできない。
出会ってまだ8日。相撲で言えば中日。丁度折り返し地点だ。
我が家に君臨する大横綱ジョゼの暴れっぷりは、角界の暴れん坊将軍・朝青龍にも勝るとも劣らない。そう飼い主である自分が自負している。
そんなジョゼも疲れると、椅子の上にあがってすやすやと眠る。その姿を見ていると、ああジョゼも老猫になれば一日中こうやって眠っているのかと想像したら、目頭が熱くなってきた。
猫可愛がりとよく言うが、猫を飼うと言うひと誰もが、猫かわいがりするんだろう。
猫にまつわる慣用句は多い。
猫に小判。猫の手も借りたい。
これらの慣用句を見ると、どうやら猫は役立たずの生き物と古くから思われていたらしい。
だが、そこに猫の魅力を感じる。芸術と一緒じゃないか。
なくても生活には困らないが、ないと生活に張りがなく、甲斐がなく、つまらなく退屈だ。
そう考えると、猫の存在自体が芸術なんだと思ったりする。
多くの芸術家が猫をモチーフに作品を造り、また猫と共に暮らした芸術家は多く、猫の存在に自己の孤独を癒された者は多い。
もちろん猫は完ぺきな存在ではない。
いい所もあれば困ったとこもある。
猫を飼う者は、そのメリットとデメリットを身体と心で受け止めて、寛容な気持ちで猫を見守って欲しい。
ああ。長くなりすぎた。この辺で筆を置くことにする。
長いのは猫の睡眠時間で十分だ。猫は一日10時間眠るという。
shiroyagiさんの投稿 - 23:32:21 - 0 コメント - トラックバック(0)

2009-03-28

エッシャーに魅せられた男たち

オランダ出身のだまし絵で有名なM.Cエッシャーの絵の虜になった男たちの物語。
この本を読んで、2006年渋谷東急文化村で開催された「スーパー・エッシャー展」を見に行ったことを鮮明に思い出した。
当日は幸い、入場券を事前に購入していたが、当日券を買うのに1時間待ちの状態だった。
館内も超満員の状態で、活気に満ち溢れていたのが、走馬灯のように蘇る。
題名のとおりエッシャーの絵に魅せられた人々の情熱に満ちた群像劇ノンフィクション。
ファッション界ニコルとスプークスを立ち上げた甲賀、少年マガジンの大伴、日本で初めてエッシャー展の開催企画に尽力する新藤らを中心に、世界をまたに駆け、エッシャーの版画を巡る伝説が生まれる。

美術界の裏側と歴史、DCブランドの隆盛などが背景に描かれ、より事実が真実味を増す。
時間を忘れ結末へと向かって、ページを捲った。

エンターテインメント性にも溢れ、読む者を虜にするのは、エッシャーの「魔術」か。
エッシャーの名前を知らなくても、きっとエッシャーの絵をあなたはきっと見たことがあるだろう。
そんな人にも打ってつけの1冊。
美術が、エッシャーがもっと好きになる、理解できる最良の本。
shiroyagiさんの投稿 - 23:30:17 - 0 コメント - トラックバック(0)
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