18歳で八王子工業高校(電気科G組)を卒業と同時に、主に業務用音響機器メーカーだったTEAC株式会社に就職しました。それも、希望していたミキサーやMTR、音響機器の部門ではなく、ストレージデバイス製品=パソコン周辺機器事業部です。
三ヶ月の試用期間終了の翌日から、パスポートをたまたま持っていたという理由で、ドイツのアウグスブルグにあるシーメンスに飛ばされました。納めていた自社製品のFDD修理を数千台数ヶ月でこなし、その足(羽)でUSAアトランタに飛び、ノースキャロライナのNCRでも同じように修理をこなしました。海外赴任(ドイツ、アメリカ、マレーシア、タイランド、インドネシア、シンガポールは通っただけw)期間は延べ3年/8年間程度です。
小さい時から負けず嫌いだったのと、会社員とか正社員というつもりで入社したわけではなく「従業員」という心構えで仕事に勤しもうと決めておりましたので、採用していただいたからには、何としても「与えられた仕事を期待以上に、誰よりも正確に、誰よりも早く」こなしすぎて、出っ張りすぎた生意気な杭はよく打たれましたが、打たれ強かったので非常に煙たがられていたと思います。
その後、日本で作った試作品を、国内の生産ライン軌道に乗せ、タイランド、インドネシア、マレーシアなどの海外工場に移管する(自分で持って行って自分で教える)業務に4年間携わり、8年目でリストラの一番手として、真っ先に退職しました。
退職後は、今はなき日産の村山工場から、スカイラインGTRやマーチなどを7台積の牽引車に載せ、横須賀の追浜に係留されている船に乗せたり、土日は引っ越し屋をしてお金を貯めました。
父が営んでいた本屋で約10年、地域の皆様に顔見知りになって頂き、本屋の中を間借りして2003年からパソコンの対面修理業を営み始め、父の死後、2010年にデータ復旧業務の専門店を開き現在に至っております。